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先生のコラム

鍼灸を学ぶということ 中谷哲
 
鍼灸師になって10年以上の歳月が過ぎた。いや、正確に言えば、鍼灸師になるための資格を得てから、10年が過ぎたというべきであろう。

免許を得るということと、鍼灸で治療ができることとは大きな隔たりがある。鍼灸師の資格を得たからといっても、そのことで人様のお役に立てるというわけでもないのである。
職人さんたちの世界では、10年たってようやく仕事を任せてもらえる程度だと聞く。人の手で行う仕事というものは皆同様であろう。
私の場合も、これからようやく世間様にデビューと言うことになろうか。

鍼灸学校の3年間はいわば見習いの見習い、資格を取ってようやく鍼灸界に入門を許されるというところで、本当はそれからが長いのである。生涯学び続け、そして技術を磨き続ける、そんな姿が鍼灸師という人たちなのだ。社会的に満たされている仕事とは言いがたいが、どこかの大学よろしく、独立と自由に満ちていることは、多くの人の認めるところであろう。
自らの人生を自らが生きるということに、私としては誇りを持っている。そのことが必ずしも今の世にかなった生き方でないところに、若干の問題もあるのであるが、とりあえず、人様にはご迷惑をおかけしているわけではないので、御勘弁願っている。

さて、この10数年で私は、果たして鍼灸師という職業人になれたのだろうか。鍼と灸を巧みに使い、人々のために日々働く。
そんなイメージを抱いて勉強を続けてきたが、現実は、といえば、暗中模索という言葉がぴったりとくる。まるで道なき道を切り開きつつ、ほんの少し前に進んではまた戻り、また前に進むという繰り返し。鍼灸界の著名な先人は、こう述べている。

『鍼灸はアートである。』


人体という白紙のカンバスに、治療家各々が治療というオリジナルの絵を描くというのである。決め事はあるようでない。もちろん学校では取っ掛かりとしての決め事は教えてくれる。あくまで親切心からそうしているのを忘れないでほしいのではあるが、とりあえず、何もないのだ。
『独立と自由』、はてさて私は、いったいどこへ行ってしまうのか、あるいは、このコラムと一緒で行き先不明なのが人生ということか。

共に歩まんと御希望の御仁は、どうぞ門をたたかれたい。
『たたけよ、されば開かれん』である。

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